我々は不可能性に包囲されている─四畳半神話大系

 

 大学三回生の春までの二年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛練など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。

 責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。

真顔で繰り広げられるおふざけ

 硬派ながらも遊び心にあふれる文体で綴られるのは、恋愛も健全な友情も無い灰色の生活によって青春を浪費する大学三回生「私」の独白である。「私」は京都の大学生であり、下鴨神社のほど近く、下鴨泉川町にある下鴨幽水荘という廃墟同然の下宿に住んでいる。

 入学当初の「私」は薔薇色のキャンパスライフを夢見てサークルに入るものの、とんでもない悪友「小津」の酔狂な悪戯の数々の共犯者となり、打たんでも良い布石を打ちまくってしまう。鴨川に等間隔で並ぶ恋人たちに呪詛をかけ、伝説のタワシを探して京都の街を駆け巡り、気に食わない先輩「城ヶ崎」を映画サークルから追放する策をたくらみ、ラブドールの「香織さん」の瞳を見つめ、くまのぬいぐるみをもみしだく。

 夢見た薔薇色のキャンパスライフはついぞ実現されることはなく、大学三回生の「私」は入学時の選択への沸々とした後悔とともに、そんな二年間のばかばかしい日常生活を語り始める。

 

 このような、若者にありがちな自己嫌悪や理想と現実のギャップでの苦しみといったものは一歩間違えれば青臭く見るに堪えないものとなるのだが、この小説では卓越した筆致によりむしろコミカルで非常に面白いものになっている。最初に引用した冒頭部分のように、漢文のエッセンスがほのかに感じられるような整然とした一定のリズムが小説を通して守られており、私の独白のおもしろおかしさを引き立てている。

 文体は硬派ではあるのだが、これはあくまで頭でっかちな「私」のおかしさを表現するツールとしての硬派さであって、難解な描写ではまったく無く、あくまでコント作品の一つの設定、というような位置付けにとどまっている。硬派でかっちりとした文体で、バカバカしいことをあれこれ思考する過程が、いささか大袈裟に綴られているところにクスリと笑ってしまう。  

 例えて言えば、見るからに面白そうな人が面白いことをするより、一見普通で、大人しく地味に見える人間が面白いことをする方が面白い、というような具合だ。あの松本人志も、面白い人間の条件としてネクラかつ地味であることを上げている。優れた洞察力と高度な想像力を持った地味でおとなしいインテリが、大真面目な顔をしながら、発達した脳みそをばかばかしいことに使っているというギャグなのだ。

 考えてみれば、京都という舞台もこのギャグの面白さに一役買っているのだろう。周知の通りお笑いの街である隣の大阪とは対照的に、千年の歴史ある街という自負を抱き、厳粛で深淵な雰囲気を纏った街である京都で繰り広げられるおふざけの方が面白いに決まっているのだ。  

 また、猫から出汁を取った猫ラーメン、伝説の亀の子タワシ、表向きは中華料理店である秘密結社の福猫飯店というような、作中に登場する数々の魅力的でアイコニックなモチーフの非現実性は、京都という町に特有の、悠久の歴史から導出された霊性によって緩和され、独特のリアリティーと説得力を携えながら、作品の世界観を形作るのに一役買っている。

 しかしギャクチックでおもしろおかしいとはいえ、上記のような文体は決して構造的に配置された作為を感じさせるようなわざとらしさは無い。コントの設定という表現を用いたが、舞台装置としての側面を備えているという意味であり、むろん十二分に小慣れ感のある文章で綴られている。このようなクスッと笑える独白、高度な筆致、そして不思議なアイテムの数々は、作品に彩りを与えながら、時折与えられる核心を突いたセリフを輝かせてもいる。

 

不可能性こそが人を規定する

 この小説は、主人公である「私」にありえた可能性としての4つのパラレルワールドが各章で描かれるという構造を取っている。入学から三回生の春までの二年間という同じ時間が四回に渡って描かれる訳である。それぞれに展開は異なるものの、主要人物の役回りはほぼ同様であり、しばしば同じセリフや行動が異なる角度からそれぞれ描かれる。

 最後の章では「私」はどれだけドアを開けても四畳半が続く、無限の四畳半世界に迷い混んでしまう。この四畳半は、全ての部屋がそれぞれ主人公にありえた可能性としてのパラレルワールドにおける四畳半であり、微妙に異なる展開の痕跡を確認することができるが、そのすべてに小津が登場し、薔薇色のキャンパスライフはどこにも存在しない。これが「私」の可能性であったということである。このことは主人公ら師匠にあたる樋口に予言されている。

つまるところこの作品は、無数の可能性と平坦な日常にまつわる物語である。

樋口: 可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々が持つ可能性ではなく、我々が持つ不可能性である。

君はバニーガールになれるか?パイロットになれるか?大工になれるか?七つの海を股にかける海賊になれるか?ルーブル美術館の所蔵品を狙う世紀の大怪盗になれるか?スーパーコンピューターの開発者になれるか?

私: なれません

樋口: 我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想するところから始まる。自分の可能性というあてにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。今ここにある君以外、ほかの何者にもなれない自分を認めなくてはいけない。君がいわゆる薔薇色の学生生活を満喫できるわけがない。私が保証するからどっりかまえておれ

 

 我々は常に、一歩前にありうる無数の未来という可能性を抱え込んでいる。しかし、ありえる可能性の数は、ありえない不可能性のそれを圧倒的に下回っている。当然である。実際に自分に出来ることは今自らの手中にあるという実感をはっきり持てる物のみであるのに比べ、出来ないことは想像力を働かせるかぎり無数に思い付く。出来ないことより出来ることの方が多い人間なんてこの世界のどこにも存在しないだろう。

 我々の人生は、無数にありえるように見えた可能性のほとんどをあきらめ、辛うじて可能な選択肢をたった一つを選びとることで紡がれる細い細い一本の糸だ。可能性で切り開く大道ではなく、不可能性と不可能性の隙間を辛うじて通り抜けていく路地裏こそが人生の道程だ。

 また、可能性を選びとるとは言ったものの、その選択はほとんど消極的なものだろう。どこまで出来たかというより、どこから出来なかったかと表現した方が適切であるからだ。なぜならば、たとえ自らの能力を過信していたとしても、出来ないことにぶつかれば、出来たものの中での最大値を選択するのが常識的な判断だからである。人は自分の可能不可能を無視し、積極的に自由になにかを選びとることはできない。出来ないことの存在しない超人は存在しない。不可能性が我々の選択を律している。あくまでも、出来ないこととの距離こそが我々の選択を規定するのだ。

 このように見ると、人生において、不可能性こそが我々という存在を規定するというテーゼは、逆説的でありながら核心を突いた真理と言える。

 

無限大の不可能性、あるいは四畳半世界

私: 僕がいかに学生生活を無駄にしてきたか、気づいたのです。自分の可能性というものをもっとちゃんと考えるべきだった。僕は一回生の頃に選択を誤ったんです。次こそ好機を掴んで、別の人生へ脱出しなければ

 

私: 好機を掴み損ねた。…(中略)…これでまた、同じことの繰り返しだ

 

明石: きっともう掴んでいるんです。それに気づかないだけですよ。

 

 「私」にありえた可能性としての3つの平行世界が描かれた後、最終章で「私」は無限の四畳半を冒険し、これらがパラレルワールドであることを悟る。語り合う相手も無く絶望の淵で横たわった「私」は、ここから脱出し、それぞれの灰色の日常を体験することを強く願う。薔薇色のキャンパスライフではなく、平坦な日常を願うのである。

 「私」は4つの世界において、自分の可能性としての理想である薔薇色の学生生活を信じながら、灰色の日常に甘んじてフラストレーションを日々抱え込んでいた。しかし、好機はすでに目の前にぶら下がっていたのだ。薔薇色のキャンパスライフなどではなく、平凡でばかばかしい日常こそ、「私」の可能性そのものであり、肯定すべきものだったのだ。ほかの何者にもなれない自分を肯定することに成功した「私」は明石さんとの恋を成就させ、物語はそれ以上語られることなく終幕となる。

 成就した恋ほど語るに値しないものはない、と「私」は言う。なるほど、無数のありうる可能性にまつわる物語である本作に、既に可能性が選択済みの世界は物語になろうはずがない。「私」は甘美な理想ではなく、平坦で倦怠感につつまれた日常こそ、自らの可能性であることを受け入れたことで本当の幸せを勝ち取ることに成功したのだ。

 我々の日常には、愉快な悪友である小津も、奇っ怪な樋口師匠も、凛としたヒロインである明石さんも、中華料理屋風の秘密結社も、伝説の亀の子タワシも存在しない。我々の日常は「私」の日常よりも遥かに平凡で、おそろしくつまらない灰色の日常である。不満を言えども、つまらない日常は無感動に、淡々と続くのみだ。人生は無数の不可能性によって規定される、出来ないことだらけのつまらない細い路地かもしれない。しかし我々はこれを肯定しなくてはならない。我々の苦悩は、不可能性を可能性と錯覚する所から始まっているからだ。薔薇色のキャンパスライフを夢想するのではなく、日常を大いに肯定する。これこそ終わり無き日常の倦怠感への唯一の処方箋であるということを本作は教えてくれる。

 

ドラマには起承転結があって…、感情の爆発があって…結末があります…。僕らの日常は、いつまでもいつまでも薄らぼんやりした不安に満たされているだけです。

NHKにようこそ

 

人生とは、真の自分を見つける旅路である。それに失敗したなら、ほかに何を見つけても意味はない。

ジェームズ・ミッチェナー

 

自分自身を信じてみるだけでいい。
きっと、生きる道が見えてくる。
ゲーテ